闇堕ちした黒猫

暗かったり重かったり明るかったり

孤独を選んできた

好きで孤独になりたいわけじゃなかった。

でも孤独を選ばないと余計に苦しかった。

そんな時期がずっと続いていた。






今考えてみたら、
学生の時からほぼ一人暮らしをしてるようなものだった。

家はゴミで溢れていた。
親は仕事で忙しくて、
部屋を片付ける余裕はなかった。

酒に酔った親が、ゴミを踏み潰しながら歩く度に、音やその姿は強いストレスとなって私の視界から心へと刺さっていった。

耐えきれなくなった私は「片付ける気がないなら出ていってくれ」と、親を家から追い出し、親は親の恋人と住むようになった。




私はひとりになった。

自らひとりを選んだ。

ゴミで溢れて踏み場もない状態の家の中を、たくさんのゴミ袋を広げながら片付けにかかった。


週に2、3日、朝にバイトをして、夜は学校に通った。
学業は、学年が上がる度、卒業が近づいていく度に忙しさを増していった。
家の中で、唯一いちばん綺麗だったかもしれないテーブルの上で、学校で使うものや、誰かにプレゼントするものなどを作ったり書いたりしていた時期もあり、眠らない日も増えていった。


その合間にも、片付け作業はしていた。

しかし、どれだけやっても地面が、床が、出てこない。

むしろ、ゴミ袋にどんどん仕分けていっているはずなのに、
ゴミの散らかりようが酷くなってるようにも見えた。


1番多かったのは、新聞紙。

床を覆っているものの8割以上はコレだった。
いつからか読まなくなったのに、解約もしないまま届き続けていただけの新聞紙は、片付けても片付けても消えていかなかった。

あと、親が飲んだ缶ビールのゴミの山。

ゴミ捨て場もスペースが限られているため、一気に出せなかった。しかも、バイトがある日とゴミの日が被ることも多く、早朝に起きてゴミ出し…というところまで頭が回らず、しかしバイトから帰ってくるとゴミ回収の時間はとうに過ぎてるというループを繰り返していた。



私は自ら親を追い出しておいて、こんなことを思った。

「なぜ私がこれを片付けなければいけないんだろう」


私が散らかしたのか?

いや、元は親が新聞を解約してないのが悪いのではないか。

それと、捨てても毎日親により増えていく缶ビールのゴミだって、未成年の私が捨てるのはおかしいのではないか。

苛立ちを抱え、やがて私もまたゴミを片付けることを諦めていった。(最終的には、だいぶ後になってから親が家中を片付けて退去できた)



時々親が帰ってきては光熱費分のお金を出す。

私は携帯代と食費、趣味に使うお金は自分のバイト代から出していた。
とはいえバイト代もそんなに大金あるわけではなく、
およそ給料の3分の1にも全然届かないぐらいには少なかった。


そんな生活が1年ちょっと続いていた。

その間に私は社会人になったが、心身の不調で半年間、親の恋人の家に転がり込んで3人での生活をすることになった。



完全な引きこもり生活をしていた。



その間、食事などの生活に関わる部分のお金は親が負担していたが、基本的には食事すらまともにとらなかったし、外へ出かけることもなかったので、全然使えてなかった自分の給料を使うことも度々あった。

その自分のお金が尽きてきた頃、「このままでは人としてダメかもしれない」と思った。言われた訳でもない。自分で勝手にそう思って、無理やり自分を責めたりした。


無理やりバイトを始めた結果、2日でボロボロ涙が止まらない状態になり退職。再び引きこもりになった。


それから3ヶ月ほどして、バイトを始めた。
どうにか1年少し続けた。この間に、親との関係性が悪化。親が2人いるうちの片方とはほぼ絶縁状態になった。


その後、絶縁状態の親には何も言わずに家を出ていき、無理やり一人暮らしを始めた。





いろいろあったけど、ちょっと振り返るとしんどいこともあるので省略。
転居や転職、出会い別れを繰り返して乱れながら、
一人暮らしはなんだかんだ、3、4年は続けてきた。
学生の時のほぼ一人暮らし状態から考えたら、5、6年は続けていることになる。




助けが求められなかった。
「大丈夫」って言っちゃう病気みたいなものになっていたかもしれない。

一人暮らしは、ひとりでたくさん頑張り続けなきゃいけないんだと思ってた。

だからやりたくない仕事もしなきゃ行けないと自分に言い聞かせた。

ほんとうは実家でずっといたかった。
でも環境的に、その場所に居続けることがストレスだったし、自分がいる事によりその場所の平安は乱されているんじゃないかと思っていた部分もあるので、

とにかく自分から遠ざけた。



突き放した。






自分一人が苦しめばいいだろう、と。







自分ひとりじゃ処理できない量の作業や仕事を抱えて。





もう壊れてるのに、抱え続けていたんだ。





助けを求めるのは負けだと思っていた。




助けを求める事はだらしないことだと。





そうやって、
拒絶ばかりしてたら、

とうとう最近になって、
ほんとうに
壊れきってしまった。













私は私の頑張りや努力を否定し続けて生きてきた。


周りが認めてくれなかったから、
もっと頑張らなきゃ、
褒められるくらいにやらなきゃと。


必死になってたら、
死にたくなってしまった。






すごく頑張ってんのに。




もう、頑張りすぎなんだよ。




長いこと、ひとりで頑張りすぎた。




この5年、6年って、
自分にとっては「失われた時間」だと思っている。

本来あるはずだった平安な環境とか。
人に甘えきってもいい時間とか。

それがなかった。




私はひとりで無理して頑張っていた。

なるべく人を頼らないようにして。




人を信じきれてなかった。

親でさえも信じていなかった。

幼少から裏切られて傷つけられてきたから。

信じれなかった。

信じるのに時間が必要だった。

その時間はだいぶ長いものだった。






「頑張らなくていいから、帰っておいで」

親からの言葉で、やっと気づいた。

私はひとりで抱えすぎて、人に甘えるという感覚を押し殺していたんだと。





もし、これを見てる人がいて、
私みたいに苦しくなってる人がいたら。

貴方自身、自分で
「頑張ってない」
「もっと頑張らなきゃ」
なんて思わないでほしい。

貴方はもう頑張っている。頑張りすぎてる。

つらいこと、その環境を遠ざけて。
とにかく助けを求めましょう。

間違っても、自らの命を断つことだけは選ばぬように。




ひとりで、頑張れなくなったと思うのは、

それはもう、ひとりでやり切れるような量の仕事ではないということだと思う。
自分の力不足なんかじゃない。
人に助けてもらわないとできないことだから、出来ないだけ。

ゲームの「みんなで対戦」とか、クエストにある「○人以上でクリア」とかがひとりで出来ないのと同じ。

いつか、自分が他の人を助けたくなるような気持ちに自然となれる日が来る時まで。


もう、頑張るのは、やめにしよう。

「誰も助けてくれない」

数ヶ月前。



ひとりではとても処理しきれない仕事量があって、

「誰か助けて!」と声に出して助けを呼んだら、

全員が無視して誰も反応してくれなかった。





その前から、助けて欲しい時に

「助けてください」

と言うと

「ひとりで頑張って」

と、助けて貰えないことが多々あった。







上司に言われた。

「あなたがいつも、助けを求めてくれるので、こちらも状況が分かりやすい」と。

意味がわからなかった。
状況がわかってるなら助けてくれ。

ただ単に、仕事量すごいですよという報告をするためだけの声掛けなど、私はしない。

処理できないから助けてくれと言ってるのに。




何度かこの経験を繰り返したのち、
私の中でひとつ決めたことがあった。


「もう人に助けを求めるのは無意味な行為だから、助けは二度と求めないようにしよう」


冷静に考えたら、かなしい選択かもしれない。
助けの手を拒絶し、ひとりで全てを抱え込んで処理せねばならないという強いストレスを、自らの手でかけ始めてしまったのだから。



同僚が「人はひとりでは生きていけない。助け合って生きている」などと言っていた。

言葉だけスラスラと。

助けてくれない。

言葉の意味をわかって言ってるのか、と怒りを覚えた。




上司が私の仕事量の多さを見て、同僚に助けてあげるようにと指示を出すことがある。

しかし同僚はそれを拒絶する。

私といるのが嫌だという。
…直接いわれた訳では無い。
でも、影でそうやって言っているのが、
遠くから見ていても丸わかりであるし、
実際聞いたことだってある。

私は避けられている。助けてくれない。




稀に差し出される助けの手を取れば、
また見下したように人格否定的に言葉をぶつけられてしまうので、
嫌になり拒絶するようになった。

文句言うなら助けにも来ないで欲しいと思っている。





助けもなく、ひとりで処理できないような仕事を抱え続けてたら、
なんの状況も知ろうともしてない上司から、

「なんで仕事が時間内に終わらないんだ」

「終わらないのには原因があるんだから、その原因を考えろ」

と言われた。



もう助けるとか以前に、この場所にはもう味方なんていないんだ、と思った。



まず、原因は仕事量の多さにある。そもそも、その仕事量を決められた時間内に処理できてる人はいない。それなのに私だけそうやって責められた。

仕事量の割には時間と人員が足りていないのだ。

それを私のせいにされたように思えて、ふざけるな、と思った。




日に日に、仕事量は増えていく。
助けはないまま、負担が大きくなる。

そんな中で私は最近、
今まで無かったようなミスを繰り返すようになってきた。


以前、適応障害と診断された時もそうだったが、

メンタル面が不調を極めてきたあたりで、
仕事の正確さが乱れ、
ミスを多発するようになり、
意識も集中できなくなっていく。

ぼんやりとする。
眠たいとかお腹すいたとか、そういう感覚ではなく、
頭の中にモヤが掛かってるような、そんなぼんやり具合。
これが気持ち悪いもので、意識が死んでいくような感覚にもなる。



助けてくれる人はいない。

正確に言うといるにはいる。
助けを「求められる人がいない」のほうがあってる。


私が周りに弱音を吐いても、深刻な相談をしても、
とても他人事のように聞かれるだけで、話しても意味の無いことのようにも感じる。

こういう方法があるよ、とか。
こうしたら楽になるかもしれないよ、とか。
私の頑張りを評価してくれるような言葉とか。

そういう言葉がほしいのに。

ちゃんと聞いてくれる人はいない。





私はもう諦めている。

助けを求めたって誰も助けに来ない。

他の職場へ逃げようとしたって、救われない。



社会に絶望している。
自分にも絶望してる。

居場所もない。
助け合うのが人間だと言うなら私はもう、人間としての権利もないのかもしれない。
助け合えない。


私は逆に、他人が困ってたり仕事を沢山抱えてたりする時、積極的に助けているのに、私は助けて貰えないなんて、バランスが悪い。おかしい。



誰も助けてくれない。



私はひとりで壊れていくお人形さん。
ひとりで沢山のものを抱えて、潰れるまで動き続けなきゃならないの。

人形は心を持たない。
だから心は捨てている。
はずなのに。

心が苦しい。







本当は助けて欲しいのに。

気分変調と、「好き」の存在


ここ数日、とても死にたい気持ちに駆られていた。







詳細は書けないけれど、ざっくりなんでそんなことを考えるようになったかと言うと、



・助けてもらえない孤独感
・劣等感



この2つが自分の中で暗い渦を巻いて、光さえも飲み込んでしまったんだと思う。




もう目の奥に光がない気がしている。
ずっと、心に大雨が降り注いでるような感覚でいる。




きづいたら、涙が止まらなくなっていて、



「遠くに消えてしまいたい」



「生きてる価値なんてない」



「死にたいのに死ねなくて申し訳ない」


そんなことをひとりで口走っては親にメールで送ったりする。そしてその送った行為に対しても自分の中で自分を責めることに繋がって、無限ループ。

そんな日々が続いてる。




消えたいという感覚はもう半年くらい前からぼんやりまとわりついていて、
それがだんだんと。そう消えたいと考えることが習慣化して。深刻に、もう生きていたくもないくらいに落ち込んでいった。


そりゃそうかもしれない。
消えたい…って毎日、半年間も思い続けてれば正常だったはずの気分も狂うだろう。





分かっている。
そう思わせる環境が悪いのだということは。





この場所から消え去りたいと思った。



こんな場所なんて、消えてしまえばいいと思った。




自分はこの場所によって毒に犯されて、病気になってると思う。

きっと精神科などに行けば、うつ病などの診断がなされるだろうと思う。

過去にも精神科に通院していた時期があったので分かる。


薬も飲んでいた。抗うつ薬などと言われるものを。
たしかに精神的な安定感はあった。
ただ、副作用なのか、飲む度に眠気に襲われていた。
眠ってしまうことへの罪意識があった。
眠ることで穏やかにもなれたけれど、薬により治療していた頃は、長いこと眠って過ごしていた。

闇の中だった。

そんな日々をまた過ごすことにもなりそうな気がしてる。


でもダメになりそうで。
また堕落してしまうのかと。自分に失望してしまいそうで怖い。
自分も、周りも、失望を抱いて離れていくのではないか、と。



死にたいなんて言い続けてる自分はなんて親不孝者なんだろう、と思ったりもして、余計に苦しんでいた。

それがここ最近のこと。







唯一、そんな気持ちから解放してくれる存在は、
好きなもの、ひと。



好きなものやひとを見て、聴いていたら、笑顔になれた。
こんなに心が枯れてメンタル死んでる奴だけど、それでも幸せを感じられた。
まだその感覚は死んでない。


見続けていたい。
聴き続けていたい。
そう思うことで、死を遠ざけることが出来ている。


すごいんだよ。「好き」の存在は。

心を身体に繋ぎ止めてくれている存在。

生きてると思わせてくれる存在。

大袈裟に思われるかもしれないけれど、
その存在は生命を救ってくれる。


何度もそうやって、
「好き」に救われて、
どうにか生き延びている。

嫌気

雑踏の中に毎日飛び込んで
人の波に流されて
人の流れに逆らわず
目的地へ向かう

一人ひとりは個性のかたまり
それが沢山集まるとただの集団になる
個性がみえなくなる
個性が押し殺される
個性をみせると冷たい視線

どんなに派手な格好をした人でも
人の波の中でその個性は霞む

同じことをしないと仲間ではなくなる
逆らうやつは敵になる
悪いことでもいいことでも

自ら命を絶った人
それを撮る人笑う人
それを見る人泣く人

弱いものいじめ
先生に言ってやろう
その先生も弱いものいじめ


みんなで同じ方向向いて
怖くて逆らえないと言い訳して
自分を押し殺して
そのために生きてるんじゃないでしょ

誰の命
誰の人生
生まれ変わったらリセットされると思わない
生まれ変わることに希望をもたない
みんな死んだことがない
死んだあとの本当のことは誰も分からない
次に賭けてもそれがまた納得いかなきゃまた次に賭ける
今に絶望したまま終わりまで生きるか
今だけだと思って終わりまで生きるか

ずっと生きづらい

先程飛び降りようと試みて外に出た。
だけど窓開ける音が予想以上に外に響いて、
下見たら怖くなって足もかけられなかった。

失敗また失敗しちゃった。
ここ最近仕事中も寝る前も悲しみが襲う。

こんだけ人が多いなら自分一人くらい死んだって、
寧ろ楽に過ごせるんじゃないかなんて。

感情も個性も殺してロボットみたいに社会の歯車として働き続けるくらいならもうロボットを代わりにおいて死んだっていいだろと。

弱々しく見えるからって上から目線で来られて圧力かけられて放置されて苦しめられて。
苦しめてきた奴らがヘラヘラ生きてて自分がずっとあの時に押し付けられた底辺の感覚が刷り込まれちゃって苦しみながらずっと生きてるなんて馬鹿みたい。

何のために生きてんだろう生まれたんだろう。

なんで好きでもない男女が私なんかを作り出してしまったの。その男女は他の人ができない経験ができて良かったとか言うけどそんな綺麗な言葉で収めないでよ。

責任もなく自分が作られて馬鹿なやつに育てられ金取られ大切なものも取られて捨てられて否定されて傷つけられて、そんなんでこれからも仲良くなんてできると思わないで。

思えば子どもの時から自分と同い年かそれ以下の人が嫌いで、話してるだけでも相手に合わせなきゃと疲れて、耐えて耐えて、耐えられなくなった時に、数年に1度くらいだけ爆発させてた。でも周りは不思議な顔してる。どれだけ耐えてきたのかも分からずに、なんで今日だけと思ってる。違うのに。

生きてる意味ってなんですか。

なんで生きてろなんて言うんですか。

死なれたら困るなんて結局君の都合じゃないですか。

どうして死ぬって言った時点で止めないくせに、
ほんとに死のうと実行し始めた時にだけ止めにかかるんですか。嘘でも言ってると思いましたか。

あなたにとって自分はその程度ならば、
生きてろなんて、死なれたら困るなんて、
言われる筋合いないです。


自分はずっと生きづらかった。

唯一の救いは年上の人と話してる時に溜め込んでるものが発散されて相手の話に共感できることだった。

でも今となっては、様々な道を通った結果、
もう、年上の人ですらも分からないようなことになって、
一生ものだと思ってた繋がりもすごく下の方にいってしまっていって、
誰と居ても何をしてもひとりになってしまった。

友達や大切な人もいるけれど、
自分の感覚を共有できる相手が居なくなってしまった。

苦しみを抱え込み続けて生きるしかなくなってしまった。

世界に期待もしなくなってきた。

呆れるようになってきた。

溜息を吐く。

涙は流れ続ける。

自分が泣いていても、
誰かは笑っている。

幸せに巡り会うと、
不幸が足を引っ張ってきて、
深い海に引きずりこんでくる。

時間は止まらない。

月が沈んで太陽が出るように、
無数の星が流れて消えて朝になるように、
たくさんの人間も早歩きで流れてどこかに消えていく。


自分を置いて。


ずっと死にたがっているんだ。

生き地獄だよ。

躓く動き

素早く動ける人になりたかった。

一つひとつの動作に躓くことなく、引っかかることなくサッサッ、と動ける、スムーズな人間になりたかった。

しかし自分は些細なドジを踏みやすい。

例えば教科書を机から出すのにも、他の子はサッと取り出して机に出せてたのに、自分は手を滑らせて一発で掴めなかったり、机の端に引っかかってページがめくれちゃったりしていた。
ICカードのホルダーをポケットから取り出す時も、他の人はサッと取り出して、改札の前で時間を取らずに通過してるのに、自分は改札手前でポケットにホルダーがひっかかり取り出せない。邪魔にならない場所に避けてやっと取り出したはいいが、かざすと読み取りエラーで一瞬止められ、再度かざしてやっと通過。
文字を携帯で打つ時も、「〜かった」と打ちたいのに「かつまた」と打ってしまったり、漢字に変換したかったのにひらがなのまま確定しちゃったり、打ちたい文字を一発で打てないときも多々あり、消す手間が増えてやる気が削ぎ落とされるような感覚になる。

こういった事が日常的に頻繁にある。
他の人はすごくスムーズに引っかかることなくサッサッ、としてる。
反対に自分はゆっくりのんびり。そしてスムーズにしようとするとドジを踏んでかっこ悪い状態になることもよくある。どっかから鼻で笑われてる感じもする。

今でもそんなドジを踏んでしまうような自分に苛つきを感じることもある。
忙しなく止まることなく動き続ける世の中についていくには、ゆっくりのんびりし過ぎていると舌打ちをされてしまう。
表面上平気な顔をするけど、舌打ちや睨みつけだけでもかなり傷ついて消え入りたくなってしまう。

なんでこんな早い流れに合わせなきゃいけないんだと思ってる。

たぶん、自分は昔からこういうことがあったし、物心着いた時からこんな感じだったので、今さら早く動こうと思っても無茶なのだと思う。

世の中色々な人がいて、きっと人の数だけ性格や環境が存在するから、
みんな早く動いてるように見えても、それは集団の全体を大まかに見てるだけなのだと思う。
拡大してみたら、自分のようにゆっくりしてる人もいるし、逆にすごく早い人もいる。色んな人が集まって平均されて早く見えてるのかもしれない。

だから合わせなければいけない時は合わせるけれど、
それ以外の時は、内心、「ゆっくり生きてるし早く動くとこうやってやらかしちゃうし、なんかごめん…」って思いながら過ごしている。

ウサギとカメなら圧倒的にカメ。
成果がウサギより出るかはまだ分からないけれど。

大人

今週のお題「二十歳」

10歳の時、学校で「二分の一成人式」が行われた。
その時に、20歳の自分に向けた手紙を各々が書かされた。

しかし、家がとてつもない汚さだった為に、その手紙は消え去ってしまい、20歳になったときにそれを読むことは出来ず、何を書いたのかも思い出せるわけもなく、おそらく捨ててしまったのだろうと思う。


20歳になるまでに、楽しいこともつらいこともあった。
つらいことの方が自分には多かった気がする。
よく耐えられたなと思う。
もう少し弱い自分をさらけ出していても良かった気もする。
たぶん一生モノになるであろう大切な趣味や、好きな人やものにも出会えた。
20歳になるまでにしてきたこと全て、無駄なことはなかった。何をしていても無駄なことなんてひとつも無くて、その間にしたこと全てが今の自分を作っていると思う。また、今の自分も、未来の自分を作っている途中なのだと思う。

大人になる時は、物事のひとつひとつに対しての感動の振れ幅が小さくなって、落ち着いた時だと思う。

生まれたばかりの赤子の時は、些細なことに反応する。言葉が話せないので、泣くか、笑うかで感情を表す。
私は物心ついた時、耳にする音楽や言葉、見える景色などに感動すると、現実から意識が離れて、その対象と自分だけの妄想空間に入り込むことが多かった。脳内で映像が作り出されたり、見えないけれどその場所の雰囲気の色も感じたり、空想上の友達とテレパシーで会話したりしていた。
今でも時々、頭の中で何かを描くことはあるが、子どもの時ほどに世界が広がることはあまり無くなった。

子どもの時は初めてのことが多いから、感動しやすい。
成長していくにつれ、初めてのことは少なくなっていき、同じことを繰り返す日々もあったりして、感動は薄れていく。
子どもの時、嫌なことを言われたりされたりすると、周りに人がいようと悲しくて泣いていたけれど、回数を重ねていくうちに深く傷つくことは無くなり、小さいものなら受け流せるようにもなった。

大人の完全体になった時は、
喜怒哀楽を大袈裟に表現することもなく、
落ち着いた雰囲気で全てを受け止めて、
死に対する恐怖さえも無くなって、
穢れのない水のような、雲ひとつない澄んだ空のような、
そんな人間になっているのだと思う。

死に対する恐怖が薄れるのは少し怖いが、
まだ恐怖を感じている今の自分は、
まだ未完全な大人だということで、
少し安心、していいのだろうか。

でも日々、正体の分からない何かに対して怯えてる自分の大人レベルは、まだまだ低いと思う。